ドットの解像度をなぞる
ドットは単なる低解像ではないと思う。単なる懐古趣味なのかもしれないが。
ポケモン
僕とドット絵の出会いはポケモンだったように思う。マス目で構成された世界に夢中になった。一番最初にプレイしたのは青だったが、一番やり込んだのはDSのプラチナだ。そういうわけで、僕の中ではポケモン=ドットの方程式がそれなりの強度で成立していた。
しかし、その方程式も直に崩れることになる。XYからは3Dモデルのポケモンが画面を踊るようになった(まあ、3Dモデルも結局のところ広義のドット絵と言えばそうなのだが)。正直、最初はどことなくこれじゃない感があった。まあすぐに慣れたが。
解釈の余地
今ではソード・シールドも違和感なくプレイしているが、たまにあの頃のソフトを起動してドットの温度を感じることがある。3Dモデルによって、また、解像度の進歩によってドット絵は失われていったが、むしろ、それによってドット絵の良さを僕は知ることになった。
ドット絵は確かに細かい描写に向いていない。制限されたドットの中で創意工夫を凝らすものだ。だからこそ、そこには解釈の余地があった。ドットの微妙なグラデーションから、その間の余白を想像で補完した。想像だからそれは人それぞれで、制限の中にある種の自由さがあったと思う。
解像度
時代は高解像へと向かっている(向かっていた、というべきか)。性能を伸ばしただけディスプレイが売れる、そんな資本主義の流れに呑まれているようにも感じる。僕がこんなことを言える立場じゃないが、そろそろ立ちどまってもいいんじゃないか。それを求めている、時代に取り残された僕がここにいる。