現実逃避用の人格に愛着が湧き、肉体の心がおざなりになる
時折、本当の自分というのがどこにいるのかわからなくなる。
本当の自分などない、そんなものは個人崇拝主義が生み出した虚像である。そう断定できたならいくらか楽になっただろうに、どうしてか、確固たる自分を確立したいと思ってしまう。
インターネットの匿名性によりかかり、愚痴を垂れ流す。それができない僕は不器用なのだろうか、器用さは所詮社会の標準からの偏差なのか、わからないが。結局のところここで必要なのは、不平不満を口にすることを僕が極端に嫌っているということだけだ。
現実空間からネットへの人格の移行。ここしばらくは、現実の肉体よりも、インターネットの頭で言葉を発する回数の方が多くなった。インターネットに居場所を見つけたのか?それはよかった、しかしネットは現実よりも時に鋭敏すぎる。
エッジの効いた言葉、切り取られる出来事の切片、そのどれもがセンセーショナル、刺激的空間。時折そこに足を運ぶ分にはいいのだろうが、今の僕はあまりにも長く、そこに留まりすぎている気がする。結局は、インターネットに僕の居場所はなかった、ということで片付けてしまえば楽なのかもしれないが。
しばらくネットサーフィンをやめてみようか。外部の情報を取り入れるのはもう疲れた。情報フローに身を任せるのは楽だが心がすり減る。不平、不満、嫉妬、嫌悪、悪意、馬鹿、そのような汚い言葉に触れることで自分自身も汚いものに思えてしまって辛くなってくる。
バカとハサミは使いよう。僕はバカだったので、ハサミで自分の心を切り分けてしまっただけということだ。今からでもくっつくだろうか。