日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

人生と映画に違いはあるのか

 映画「The Truman Show」の結末と、人生を考えた話。映画の結末に言及しているため、知りたくない方は映画を見てから読みにきてください。一度知ってしまうと知らない頃には戻れませんから。

The Truman Show

 遅ればせながら、「The Truman Show」を観た。劇中にしてわずか数週間、時間にして100分程度の映像ではあったが、私はそこに人生を感じた。Trumanの人生を追体験したように感じた。劇中で度々登場した視聴者たちも同じ心持ちだったのだろうか。

 閉じられたセット、TVショーという舞台装置によって、出口へ踏み出すという何気ない行為が象徴的に描かれていたし、感動的でもあった。抑圧からのカタルシスを感じた。この感情はあくまでも一観客としての私の感情であり、主人公の感情とは異なるものなのだろう。俯瞰する上で感じるもどかしさが抑圧としての役割を十分に果たしていたように感じた。

 映画を見終わると、私はいつもその映画のハイライトを思いながらエンドロールを見る。私はこの時間が好きだ。ところが今回はいつもと違って、自分の人生の思い出が脳裏に浮かんだ。そこでひとつの疑問が湧いた。

映画

 この映画と自分が過ごした20年、どちらがより「人生」であったか、と問われたならば、私は答えを言い淀んでしまうだろう。

 ここで映画について話そう。私はそれほど映画を見る方ではない。だが、映画がカットによって構成されていることくらいはわかる。カットによって構成される映像は、すべてを映すことはない。しかしながら、それは、象徴的で鮮烈な印象を視聴者に与える。時に、生の映像よりも効果的に、意図的に。

 何が言いたいかというと、その観点から言えば私の人生も映画と同じである、ということだ。私は今まで若干20年程度生きてきた。振り返ってみても、思い出は印象の断片でしかないし、その間を補完する生活があった保証もない。いわばカットとしての思い出しか残っていない。

人生

 ならば僕はどうして、人生と映画を区別して考えることができるのだろうか。その二つを区別できるという事実こそ、人生は映画ではないと言える最大の証明ではないか。詭弁である。そうとは言い切れない。

 ひとつ上の次元からでなければ、物事を俯瞰するのは難しい。二次元の空間において、三次元を語ることはできない。映画の登場人物は、登場人物としてではなく、あくまでそのキャラクターの人生を演じるのだ。それを干渉する観客がいることなど意識しないし、する必要もない。あくまでも主人公にとっての人生は観客にとっての映画であり、私たちにとっての人生も観客にとっての映画であるかもしれないのだ。そして主人公は観客の存在を知らない。

 私は映画をスクリーンを通して見ている。私は人生を肉体を通して見ている。あくまでもその本質は同じだと私は考える。

 本質的に映画と人生が同じなら、映画観賞はまさに人生の追体験なのだ。そして、人生はまさに映画である。次元の違いこそあれ相対関係は同じなのだ。