文字を描き、絵を書く
最近マンガとは何かについて考えている。絵と文字、その関係性について、本を読んで考えたことを残そうと思う。
文字と絵
文字と絵は、本来同じものであった。概念を伝達するという目的のために、記号として用いられたのが始まりだった。そこから、文字(言葉)は、抽象的な概念を表すように、絵は、具体性を追求するようになっていった。
このことはScott McCloud の "Understanding Comics"に書いてあるので是非読んでほしい。僕は理屈が好きなのでつい読み耽ってしまった。和訳版もマンガ学という題で出版されている。
絵と文字の境界線が曖昧だということは、レタリングを見ているとつくづく思う。抽象概念を文字の並びで表現するための文字は、極端なことを言ってしまえば目に見える必要がない。その概念さえ受け手に伝わればそれでいい。しかし、活字や字幕、フォント選びをする時は、目に見える具体性を持ったデザインのことを考えている。
絵も抽象的な概念を表すことがある。印象派などもその一例だが、僕には漫符の方が馴染みがある。漫符とは、マンガに用いられる記号的表現、ショックを受けたときにキャラの顔に入るタテ線や、驚きを表すトゲトゲなどである。当然だが、現実の世界でそういった線やトゲトゲが見えるわけではない。しかし、驚きや落胆、喜びといった抽象的な概念を表すのに、絵という手段をとって表現しているのだ。
文字と絵の拡張
文字と絵の背景について改めて考えると、表現としての幅が拡張されたように感じた。これまではどこか、自分の中でその二つの間に壁を作っていたような気もする。絵は見た目を描くもの、文字は中身を表すもの。と。
別に絵で内面が表現されてもいいし、文字が見た目を持ってもいい。絵を描くように言葉を書いて、言葉のように絵を描く。Drawing Words and Writing Picturesというタイトルが腑に落ちた瞬間だった。
マンガという創作形態の柔軟さ
創作活動には、ある程度のエチケットが必要とされる。文字で書かれていなかったら小説は小説として評価できないし、描かれていなかったら絵は絵として評価できない。そういった枠組みを超えていこうとするのが前衛芸術だが、そうでない場合、創作にはある程度の型が必要とされる。
マンガの型とは、文字と絵、強いて付け加えるならコマ割りくらいだろうか。本来は同じであった文字と絵の両方を利用して表現する、ということが型として用意されているところに、自由、柔軟性を感じる。
なんなら文字を使わなくてもいい、絵だけで語ってもいいのだ。黒の背景に文字だけで姿を描いてもいいのだ。人間が表現するために用いてきた記号全てをを使い分けながら自分を表現していいのだ。
マンガは自由であってほしいし、自らその広さを狭めることのないようにしたいものだ。書くように描き、描くように書きたい。