日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

思考の中身と書き言葉、それと読みことば

 思考の中身をそのまま文章にするとめちゃくちゃに読みづらい。

ブログを書くときに

 このブログは頭から情報をアウトプットして容量を空けることを目的にしているため、出てきた言葉をそのまま打ち出すようにしている。しかし、そうして何の処理もしていない文章はめちゃくちゃ読みづらい。

 このブログを読んでくれる人が1日に2,3人はいる。わざわざ読みづらいものを流してビットを無駄にするのも忍びないと思い、連続的な文章を区切っているのだ。

思考は連続的

 普通、人の頭の中は連続した思考でいっぱいになっていると思う。ある物事から別の物事へ連想して、何かしらの考えが常に漂っているのではないだろうか。僕はそうだ。

文章は離散的

 文字列という時間軸の中で、言葉が意味を持つ瞬間が点在している。文章は連続的ではない。文章を書くには、連続的な思考を離散的な意味に標本化する必要がある。その作業の過程で失われる思考の断片がある。それが、言葉はあくまで意味への近似に過ぎないと僕が考える理由の一つである。

読み言葉

 というものがあると思う。思考を標本化したものが書き言葉だとしたら、読むという行動はその逆、量子化をしなければいけない。読むのに適した言葉は、単に書くのに適した言葉とは違うと思う。書きやすい文章ではなく読みやすい文章を書かなければ伝えたいことは伝わらない。

 話し言葉と書き言葉、という話は小学校で教えられることが多いと思うが、ここに読み言葉というものも加えたら良いのではないかと思う。

 そういう意味では僕の文章は書き言葉の段階にとどまっているので読みにくい。それでも読んでくれる物好きな読者の方に僕は支えられているし、安心感を抱いているのだ。