日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

どうしようもなくなったお宝鑑定士を妄想

 駄文でも吐き出さないとダメになる。

 生きているといろいろなことを考えるけれど、それをいつまでも頭の中にとどめておくことは難しい。5個程度でパンクしてしまう。文字通り空気が抜けてしまう(それはため息として体外へ放出される)。意味のあることばかり考えているわけではないから(というよりむしろ取り留めのない事柄を無目的にこねくり回していることが多い)、文に書き起こす必要もないのだけれど、自分が考えた足跡をどこかに残しておきたいと思い、ペンを執るのだ(もっとも、今では専らコンピュータに備え付けのキーボードを叩くだけであるが)。

 このような言い訳、防衛、自己弁護の言葉を敷いたところで、最も愚かな自己矛盾に塗れた男の、宇宙一偉大な駄文を無意味に発信しようと思う。

 どうしようもなくなった鑑定士のことを考える。

 テレビで放送している、骨董品を引っ張り出してきては貨幣価値に換算する番組を眺めるのが好きだった。実家の蔵にも所謂「お宝」が眠っているかもしれないと心を踊らせたものだ。しかし今となっては、経済というシステムの十全でないところを薄々感づくようになった今では、もうそれほどその番組に心惹かれることは無くなっていた。

 わざわざスタジオに出向いては、文脈の失われかけている骨董品に意味を与え直す、そういう仕事。そして金額という指標に変換する。虚しくはならないのだろうか、僕はふと心配になる。そして、その行為の対価として通貨の報酬をもらうのだ。

 そうして繰り返して、行為を日常に刷り込んだ先に、ふと臨界点が訪れる。どうしようもなくなるのだ。どうしようもなくなるということは、それ以外の何ものでもない。ただ、言葉で表現できないほどにどうしようもなくなり、理性で抑えつけられないほどにどうしようもなくなり、解放か死を選ばなければいけないような、だがそれとは違った感情をどうしようもなく抱くということだ。そうしてゆったりとした着物の袖から金属製のバットを取り出して、思い切りスイングするのだ。きっと滑らかな壺や、石でできた像や、ブリキのアンティークは粉々に砕け散るだろう。それほどに素晴らしいスイングを、どうしようもなくなった鑑定士は繰り出してくれるだろう。

 しかし画面の向こうの彼らは実際的に満足しているように見えるし、それは僕の妄想によって崩されることもない。それでいいし、そんな世界はこの世界と交わるべきではないとも思う。