日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

右が奇数で左が偶数という感覚

 Twitterで、左右と偶数奇数の共感覚についてのツイートを目にしたので、自分の感覚について書こうと思います。

左右のイメージ

 左右のイメージは、左が寛容、安定、四角形で、右が鋭利、不安定、三角形です。左はひらがなの文字数が多いから安定、右は文字数が少ないから不安定。漢字の形も、「左」は開いている部分が多いから寛容、「右」は閉じている部分が多いので鋭利。あと、僕は箸を右で持つので、茶碗を持つ左は寛容、箸を持つ右は鋭利です。

 

偶数、奇数のイメージ

  偶数、奇数のイメージは安定していると思います。偶数は安定、二又、奇数は不安定、孤立です。割り切れるかどうかということが、そのように感じるいちばんの理由だと思います。一応付け足しておくと、5は例外です。5は奇数だけれど安定のイメージを持つ唯一の数になっています。僕の中では。(この、5と安定についてのエピソードは明日のブログに書こうと思います。)

 

「左右←→偶数奇数」ではない

 タイトルで、「右が奇数で左が偶数」と述べましたが、僕が実際にそのように、直接的に感じていることはありません。逆に、「奇数が右で偶数が左」に感じることもありません。「右が不安定、奇数は不安定、だから右は奇数」というような論理が裏に隠れています。左の場合も同様です。概念に付随するイメージを媒体として左右と数の概念がつながっているように感じる、ということです。

 

共感覚ではないかも

 こう論理立てて考えてみると、僕のこれは共感覚ではないのかもしれません。以前数字と色に関する共感覚の方の記述を読んだところ、数字そのものに色がついているように感じているとのことでした。それは数字に色が直接付随している、と表現することができるのではないでしょうか。僕のこの場合は、数に左右が付随しているわけではないし、その逆でもない。それではこれは一体何なのか。ただの屁理屈、というのがいい落としどころではないでしょうか。