日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

創作したいのにできない、やらない私自身の仮説

 「マンガを描いて人に見せ、あわよくば楽しんでもらいてぇ〜えへえへ」と日頃思っている私です。しかし、描きたい描きたいというばかりで一向に描き始めない。そんな私の問題点を説明する、そこそこ納得する仮説を思いついたので順を追って書こうと思います。

 自分を観察していて、創作物との向き合い方には3パターンあると思いました。インプット、サイクル、アウトプットです。

インプット

 インプットは、作品を読む、見る、触る、などして、その感覚の記憶を体内に取り入れる行動のことです。この対象は必ずしも作品の形をとっている必要はなく、生活する上での体温、匂い、食べたもの、触感など全てが対象となる、と思います。

サイクル

 サイクルとは、インプットで得た記憶を自身の中で反芻することです。経験を繰り返し思い出し、時に結合させる。マンガの表現について考察を巡らせたりするのもこの段階に含まれます。この過程で生まれるのが、「このネタ、マンガにしたら面白いかな」とか、「これとこれって本質的に同じだよな」とかのアイデアです。意外なものの共通点を見つけた時は優しいため息すら出ます。

アウトプット

 アウトプットは、自身の内部にあるアイデアを外部から認識可能な形態に変化させることです。具体的にはアイデアをもとにマンガを描いたり、ブログの文章を書いたりすることです。

自分の現状:行動の不一致

 私は現在、インプットとサイクルの段階で止まっています。マンガを読むだけ読んで、アイデアを産むだけ産んで、見える形へアウトプットできていない。目的が「あわよくば楽しんでもらいてぇ〜えへえへ」なのに対して行動が噛み合っていないのです。

原因:習熟度の段差

 上で述べた行動の不一致の原因が何か、考えました。そして、「3パターンの行動の習熟度の段差が大きいこと」という仮説を立てました。

 満足している状態を、樽に水が溜まっていくようなものと捉えると、わかりやすいかもしれない。想像してみてください。樽は、樽板を組み合わせて作られている。その板のそれぞれがインプット、サイクル、アウトプットだとすると、今はアウトプットの板の長さが他の半分くらいしかない。すると、いくら水を入れても、樽に水が満杯になることはない。半分までしかたまらない。少しずれているかもしれませんが、満杯=満足と思ってください。

 いっそアウトプットという板そのものがなかったのなら、少し小さい樽で、満杯になる樽を作ることができただろう、だがしかし、一度創作の喜びを知ってしまうと、もう後には戻れない、あることを知ると無いことに空を感じてしまうのです。

 これを満たすにはとにかく身体を動かし、堆積した、屈折したアイデアを吐き出すしか無い。お前は怠けているのだと指摘されれば、諸手を挙げて平伏する他ないのですが......なぜ怠けてしまうのか、それについてはまた次の記事で書くとしましょう。