日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

手に入るものと手に入れたいもの。

 本当にせこい奴だよ、Racchi、おまえは。

一番くじ

 を考えた人は相当頭がいいですね。くじはあたりが出てしまうとその景品がなくなってしまう。だからと言って目玉景品をたくさん入れたのではあたりのありがたみがなくなってしまう。あたりが無くなったくじを引こうと言う人はほとんどいないでしょう。

 そこでラストワン賞が活きてくるわけですね。最後の一枚のくじを引いた人は必ずその景品をもらえる。あたりの景品と同等の景品を用意しておくことで、くじの最後の一枚にまで商品価値を付加したわけです。

コンビニ

 によく置いてあります、一番くじは。僕がいつも行くコンビニにも置いてあります。僕はそこへ行くたびにくじの残り枚数を確認していました。残り枚数が少なくなった時、残りのくじを買い占めてラストワン賞を手に入れようと言う魂胆です。

 ある日、いつものように確認すると、残りが10枚くらいになっていました。しかも、A賞がまだ出ていませんでした。ここで全部のくじを買ったらA賞とラストワン賞の両方が手に入る、そう踏んだ僕は、次の日に買い占める決意をしてその日は帰ることにしました。

 次の日、僕がいつものコンビニに着くと、A賞の景品が無くなっていました。誰かが当てたんです。しかも、一発で。フィギュア二つが手に入ると踏んでいた僕は、( A賞とラストワン賞はどちらもフィギュアでした)なんだかやるせなくなって帰りました

せこい奴

 なんですね僕は。1日目に決意だけして帰ったのは、誰かが何かの拍子にくじを減らしてくれないか、という邪な思いが無かったとは言い切れないのです。これが、二兎を追うものは一兎をも得ずということでしょうかね。少し用法は違いますが。

 そうして結局、買えば確実にラストワン賞は手に入るのに、それすら買わずに帰ってきたわけですが、そのフィギュア自体、欲しかったのかと言われると、そこまででも無かったのだろう、と言わざるを得ない。本当に欲しかったなら、1つを逃してももう1つは手に入れたいと思うはずですからね。

手に入るものと手に入れたいもの

  は違うということを、この出来事から考えました。

 僕は結局のところ、少ない労力で大きな成果を得る、そのお得感を楽しみたかっただけだった。しかし、それは本当に手に入れたいものだったのだろうか?違う

 僕は、そこにお得感が転がっていたから飛びつこうとしたに過ぎない。そこに「残り少ないくじ」と言う状況が無ければ、そのような欲求すら湧いてくるはずがなかったのだ。それは本当に欲しいものではない。

 今回の出来事から、一歩引いたところで自分を見つめることができた。刹那の状況に絡めとられて自分を見失う。これが衝動買いなのだろう。周りの環境が自分を形成するとしても、それはもっと長期的な蓄積として形成されるべきだと思う。決して刹那的なものであってはいけない。

 僕が本当に欲しいものは何か。それを見つめる旅はまだ続きそうである。