日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

論理的存在のジレンマ

 論理的に存在することについて考えた。

哲学的には

 その存在を想像することができたなら、それは論理的に存在するのだという。ドラゴンというものは想像することができる。ということは論理的にドラゴンは存在する。しかし現実的にはドラゴンは存在しない。コンピュータという、人間の代わりに0と1で計算を表現して計算する機会を想像することができたなら、コンピュータは論理的に存在する。そして、現実的にもコンピュータは存在する。

現実的に、存在するかしないか

 の境界線はなんだろう。僕が思うに、論理的に存在するものは、必ず現実的にも存在すると思う。それじゃあドラゴンが現実に存在するというのか?違う、そうじゃない。先ほどのドラゴンの例は、僕が読んだ本から引用した例だが、この例こそが間違っているのだと思う。「論理的に存在する」ということは、その詳しさの程度によって現実的に存在するか否かが分かれているのだと考える。

 ドラゴンの皮膚の組成は?火を吹く気候はどうなっている?どのような生物的文脈を持っているのか?そのようなことの隅々まで想像することができたなら、それは現実的に存在することができる。しかしそうでない場合、現実的には存在せず、論理的に存在するだけに止まる。

存在しないもの

 のことを考えるとき、あるパラドックスが生じる。存在しないものを考え出したとする。(例:狂ったババア投擲選手権)これは確かに存在しないものだった

今、想像するまでは。

 想像した時点で、それは論理的に存在することができる。ということは、存在しないものを想像したはずなのに、それが存在することになってしまう。

 これまで嬉々として存在しないものを考えて、やれ存在しないものしりとりだの存在しないものクイズだの遊んできたものの、そうすることによって存在しないものを存在させていたという自己矛盾に陥ってしまっていたことに気づいたのだ。