日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

僕なんてスマホ立てと大して変わらない。そしてブックエンドに成れたなら素敵だ。

 硝子に映る自分の姿は、有機物なのか、はたまた無機物か、あるいは無機物的有機物なのか、僕には判別がつかなかった。

  スマートフォンを左手に持つ。親指で画面をなぞる。意味のない情報を見て、意味もなくカロリーを消費して、意味のない文字列をインターネットに残す。そこに意思はもはやない。もとよりない、意思の介在を許さないように設計されたシステムに誘導されながら、肉が徐々に朽ちていく。

 ほかの四本の指で重みを支える。りんご一個分を支える筋力だけ、ただそれだけがあればいい。脚も、腕も、腹も、背も、胸も。徐々に、意識できないほど徐々に、だが確実に、時が流れるならばそれと同じくらいは正確に、衰えていく。

 風化するのは肉だけだろうか。不幸中の幸いか、肉は鍛え直すことができる。完全ではないが救いはある。怠惰に染まった肉体に鞭を打ち、鉄を叩いて純な鉄を取り出すように。怠惰と言う名の不純物を吐き出すように。しかし精神は一度染まると二度とは戻らない。不可逆の汚染。

 不可逆。そのような性質を持つ現象は、世にどれだけあるだろう。一度知ってしまうと知らない頃には戻れない。情報の流れは一方通行である。ポンプで汲んで返すことは叶わない。北斗七星の柄杓でさえ掬うことはできない。大人になると子供に戻れないのはそう言う理屈である。子供とは大人を知らないこと故、大人を知った大人は子供には戻らない。

 僕は辞書が好きだ。言葉を通して世の全てを一冊の本に閉じ込めようとした編纂者たちの努力が美しいと思う。連続する世界は言葉で切り取ったとて全てを表すことはできない。しかし篩にかけられて残ったその言葉は、意味のあるものだろう。その意味に美しさと愛おしさを感じている。

 僕はエゴイストだが、それが赦されるのなら、僕に本を立てる役割を与えてはくれないか。言葉を愛でながらそこに存在することを許してくれ。