みんなが不幸なのは僕が不幸でいい理由にはならない
みんな我慢しているからとか、みんなやっているからやろうとか、そうして大局に乗るのは、流れを読むことができたなら楽だし、心のよりどころに、現実と心の緩衝材にもなると思う。
でも他人は他人だし、結局は自分は自分だ。地続きの世界に暮らしてい流ように感じるが、僕が知覚する世界は主観に過ぎないし、そう考えると世界が誰ともつながっていないような気もしてくる。
だから僕はいつも思う。僕以外のすべての人が不幸でも、僕が不幸でいい理由にはならない。逆に言えば、僕以外のすべての人が幸せでも、僕が幸せだとは限らない。
みんなが1の不幸を持っていたとして、僕が1の不幸を持つ必要はないし、だからと言って1の幸せを持つ必要もない。それらは全く無関係だと思いたい。みんなが1の幸せを持っているとして、僕が1の幸せを持つ必要もないし、1の不幸で均衡を保つ必要もない。こう喩え話をすると抽象的な部分が失われがちになるからあまりしたくないのだけれど。いろいろな角度から言葉を当てないと伝わらないこともある。
掴み所のない駄文を書いてしまいましたが、これが、若輩の自分が持っている一つの教訓であり、自己防衛の手段であり、信念でもある。
そうは言えども悲しみに心が傾いたり、自由に対する責任の重圧に押し潰されそうになることも多いのだが。