日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

僕がスプートニク

彼を表すものが彼女であった、そして彼女は彼を表していたのだ。おそらくは。

 

僕はこのまま考えを、形を成すままに書き始めたいのだが、形式上、人が読むかもしれない文章の作法として、以下に連ねるのは小説を読んだ感想だということをことわっておきたい。

 

文章を書くという行為は彼女にとって、すみれにとって考えをまとめるための方法で、遠回りに見える、いやじっさい遠回りなのだが、そういう種類の手段であった。

文を追いかけるだけでも明白にそうだとわかるし、僕の解釈でもそのように思われた。

すみれを見る語り手、名前が明確に示されたかは覚えていないが、K、その人が語り手であった。

 

作中の言葉を借りるなら、彼も彼女も、きっと著者の象徴だったのだ。

 

文章を書く彼女、すみれは、著者村上春樹の小説家としての側面を表す象徴であったのだろう。しかしそれは記号ではない。それが彼の全てではないということは明らかであるし、そうでなかったとしても、彼女を彼女を以って彼に等しいとするにはいささか次元が足りないように思う。

その彼女に好意を寄せる彼、Kは、小説家たる自分を見る側面の象徴であった。彼と彼女のどちらも完全にではないが、どこか彼を投影しているのだろうと僕は読んだ。

 

正直なところ、『スプートニクの恋人』を読み終わってすぐには、その二人の人物(もっと言えば登場した全ての人物達)がそういう独立した人格として産み落とされたのだとばかり思っていたが、僕がもう一冊、村上春樹の小説(小説ではないらしいが)を読むと、そうではないことが理解できた。

回転木馬のデッド・ヒート

講談社の文庫本だった。「はじめに」の一節で彼が書いていた。書くことが考える手段であることを。こんなありきたりの言葉ではなかったかもしれないが、僕にとってはその表現の機微よりも(こういうと小説好きに怒られるかもしれないが)大まかな印象の方が大事だったのだ。

 

彼は自己を投影したのだろうか。想いを馳せても意味はないだろう。僕は読者であるが作者ではない。無機質に回るスプートニク