自分の生存確認としてブログを書く
生の実感が希薄な時代に。
低浮上
Twitterなどで投稿をしないことを低浮上というらしい。ツイートが浮かんでは消えていく、泡沫のようなシステムにはぴったりの表現だとつくづく感心する。こういう、一見俗っぽいようで機知に富んだ表現に、言葉の豊かさというか、たくましさを感じる。
自分はいわゆる低浮上である。生まれた当初はツイートをしないことが普通であるというのに、その状況を水の底に喩えるのもおかしな話だが。会話もせず、言葉を書かず、うめき声を上げながら布団にくるまっていると、生の実感がだんだんと薄れていくのを感じる。
鏡に映る自分の姿
鏡越しであっても、自分の姿を確認するとその存在がそこにある実体として感じられる。私は一日に一度風呂に入る。顔も洗う。風呂場には鏡があるのだが、それを意識して見ることは意外にも少ないようだ。ただでさえ希薄な実感が失われていく。
人は他者との関わりの中で自己を実感するというが、それは他者という鏡を通して自身を確認していることにほかならない。話しかければ言葉が帰ってくる、それで自分が話しかけたという出来事が実際に起こったのだと知る。鏡に向かって手をふれば、鏡も自分に逆の手を振る。そうして自分が手を振っていることを知ることができる。
ブログに映る自分の姿
そういう意味で、ブログというのは自分の存在を数値的に捉えることのできる鏡であると思う。自分の綴った言葉が文字の数として明確に表れ、記事を読んだ誰かが閲覧数として画面越しに手をふる。そのような分析をできるブログシステムは、まことに人間のために作られたものだなと感心させられる。
自己の存在確認
ただそこに座って呼吸をするだけで自身を感じることができたなら、それが一番だと私は思う。だがそれは簡単なことではないし、互いの評価が軸となる時代にはとても難しいことだとも思う。自身の確認に誰かを頼らずにはいられない。結局のところ私は、自立できるほど強くはない。
量的なものよりも大切なことは確かにあるのだろうが、今の私は数値の量に頼って自己を確認したいと思う。今はまだ誰かに頼って生きていたい。
結論:ブログ更新を再開します。