日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

器用貧乏に関する一つの考察

 自身の性格を問われた時、僕はしばしば、自身を器用貧乏な性質だと表現する。

 器用貧乏の根幹をなすのは器用さである。これは言葉の頭に器用とつくことからもわかるだろう。器用であることゆえの弊害、いや、それは語弊があるな、そこの論理は逆だ。器用が器用貧乏を包含している。器用貧乏である以上、器用であることは間違い無い。

 人並みに要領が良い。何をやっても人並みに要領が良い。器用にこなす。これはあくまでも主観的なものであり、テクニカルに要領がいいというわけではない。平均以上なこともあれば、平均以下なこともある。中央値をとったりとらなかったり、最頻値に近づいたり近づかなかったりする。どちらにしろ、器用にこなす、というのはあくまでも主観に過ぎない。

 貧乏なのは心だ。

 向上心がまるでないのである。しかもひどく現実的に狭い範囲ですら向上心がない。近くにいる人々の中間を取って結果中庸な人間に成る。それが、皆が言う世界を鑑みて一番中庸かと問われれば、必ずしもそうではないだろう。お山の大将ならぬ山の中腹の凡人といったところである。それでも世界を見ようとしない。見たとしても地続きだとは思わない。その心が貧乏なのだ。

 僕にとって生きていくことは容易い。生きている者の中間を取ったなら生きていることは容易い。だがそれだけである。

 この性格を知って尚、中庸であり続けるのか。非凡でありたいと願う心と元来の性格との間に板挟みにされているのである。考えても平凡な答えしか出ぬ。ああ哀し、しかし哀しいとは思っていない。