日記、だいたい怪文書

日頃思うことを書いています。どうしようもない

流行りはじめのものが好きだ。しかし流行は好きじゃない。

 僕はそれほど流行に敏いわけではない。話題の歌手のヒット曲なんて半年も経たないとフルコーラスで聞くこともしないし、漫画だってアニメ化作品が2クール終わってからでないと1話目を読まなかったりする。

 それでも、コンテンツ(簡単な言葉で一括りにしたくはないが、便宜的にそう呼ぶのは、単純に作品の形をとっているものだけではなく、文脈としての一連の文化的活動も対象とするからである)は黎明期が好きだと僕は感じる。あるいは誰でもそうなのか、それを確かめる術はないが。

 出遅れているのだ。そして出遅れることに慣れているのだ。負けることに慣れている。初めから戦わない意思を示すことで負けない、勝たない、戦わない。

 流行を共感の材料として扱うなら、即座に波に乗るべきなのだろう。しかし僕の姿勢はそれと異なる。流行を質の保証として利用しているからだ。人口に膾炙したものならばあくまでも最低限の質は保証されているだろう、と考え、上澄みだけを啜っている。清濁合わせ飲んでこそ人間だとはわかっているのだが。

 ともあれ、流行に乗り遅れるまっとうそうな理由を立てることに成功した。少しの安堵とまた眠ろう。

現実逃避用の人格に愛着が湧き、肉体の心がおざなりになる

 

時折、本当の自分というのがどこにいるのかわからなくなる。

 本当の自分などない、そんなものは個人崇拝主義が生み出した虚像である。そう断定できたならいくらか楽になっただろうに、どうしてか、確固たる自分を確立したいと思ってしまう。

 インターネットの匿名性によりかかり、愚痴を垂れ流す。それができない僕は不器用なのだろうか、器用さは所詮社会の標準からの偏差なのか、わからないが。結局のところここで必要なのは、不平不満を口にすることを僕が極端に嫌っているということだけだ。

 現実空間からネットへの人格の移行。ここしばらくは、現実の肉体よりも、インターネットの頭で言葉を発する回数の方が多くなった。インターネットに居場所を見つけたのか?それはよかった、しかしネットは現実よりも時に鋭敏すぎる。

 エッジの効いた言葉、切り取られる出来事の切片、そのどれもがセンセーショナル、刺激的空間。時折そこに足を運ぶ分にはいいのだろうが、今の僕はあまりにも長く、そこに留まりすぎている気がする。結局は、インターネットに僕の居場所はなかった、ということで片付けてしまえば楽なのかもしれないが。

 しばらくネットサーフィンをやめてみようか。外部の情報を取り入れるのはもう疲れた。情報フローに身を任せるのは楽だが心がすり減る。不平、不満、嫉妬、嫌悪、悪意、馬鹿、そのような汚い言葉に触れることで自分自身も汚いものに思えてしまって辛くなってくる。

 バカとハサミは使いよう。僕はバカだったので、ハサミで自分の心を切り分けてしまっただけということだ。今からでもくっつくだろうか。

新しい自分を更新し続ける

最近ブログを更新していない件について考えたこと

前座

気がついたらブログを更新しないうちに年が明けて、なんなら2月になっていました。

あけましておめでとうございます。

 

年が明けたからといって何が変わるわけでもない。連続した日々が続くだけだ。そう思っていたのは中学生の頃で、今は一周回って節目を楽しもうと思えるようになりました。

 

今年は節分が2月2日でしたね。節分商法に乗っかるのも悪くないもんだ。毎日献立を考える身になってからそれをひしひしと感じるようになりました。四季折々のものを食べる(まあ、節分の場合には四季はあまり関係ないかもしれないが)ことで、牛縄絵がちな季節感を取り戻す。ああ、旬の魚が食べたいな。

 

時折、自分のブログを覗きに行きます。

多くの人に読んでもらおうと思って書いているわけではないけれど、何回読まれました、と記録が残ると、読んでくれたそのあなたに対して感謝するし、うれしくなります。

今日も今日とてブログを見たところ、トップに来ている記事がもう2ヶ月前のものでした。

ああ、こりゃいかんなと思って筆を執っている(キーボードを叩いている?)次第です。

 

本題

毎日、私の体の成分は変わっている。毎日ものを見聞きしてどんどん新しい物を取り入れていくし、昔のことはどんどん忘れてしまっていく。

生き物は変化することで恒常性を保つ。

古い細胞が死に、新しい細胞が生まれる、この循環を続けることで体は体であり続けている。小さな死と生という変化があってこそ体は不変で体としてあり続けることができる。

それは頭の中でも同じことで、新しいことを常に考え、思考を更新し続けることでこそ私は私であり続けることができる。

 

ブログはある意味、死んだ細胞を、思考のアカを積み上げているようなものだ。しばらくたてばその考えは通用しなくなることもあるだろうし(元々通用するものであったかは別として)、時代の潮流にはそぐわないものになっていくだろう。

価値あるものを残したなら時代に左右されることもないのだろうが、今の自分には何が価値を持つのか、価値というよりむしろ、意味のあるものとは何かが分からなくなってしまっている。

だからこそ、更新し続けるしかない。意味があると思うものを日々考えて、日々頭の中を作り替えていくしかない。その過程として、僕はブログを更新しようと思い至ったのだ。

 

昼夜逆転2

 どうすんねん、戻らんぞ

昼夜逆転

昼夜が逆転してしまっています。

ある時、課題が終わらなくて夜の間にやったんですね。

終わった頃には朝になっていたので、「このまま起きとくかー」

と言って

 

そのまま爆睡しました。

 

その後、起きたときには午後2時。

そこから昼夜逆転生活が始まってしまいました。

朝ごはん、ラジオ体操、縛りあり

ある種の縛りがあった方が生活リズムは保ちやすい。

外に出る用事がないとついつい家の中で1日過ごしてしまいがちです。

(ウィズコロナのこのご時世、家にいるのは良いことかもしれませんが)

 

朝ごはんをしっかり食べるというのは、一つの縛りたり得ると実感しています。

決まった時間に食事をすることで、自分に対して時間の制約をかける。

食事は直接内臓が動くので、体のリズムがしっかり刻まれる感じがします。

 

ラジオ体操とかもよさそう。

小学生の頃に夏休みのラジオ体操をやっていたけれど、あれは学校という縛りを失った子どもたちへの救済だったのかもしれない。

今年から小学生になった子たちは夏休みを享受することができたのだろうか。

学校にフルで通ったその末に得られる幸福が夏休みだと思う。

エネルギーの発散をする場が欲しいね。

真っ当な生活

信念が一本あれば多少社会から外れて生きてもうまくいく、とは言ってみるものの、その信念がないから困っている。

大衆から外れる勇気もない癖に、昼夜逆転をしているのはいかなるものか。

ちゃんと起きよう。ちゃんと寝よう。ご飯はしっかり食べよう。

当たり前の継続を難しいと感じることになろうとは、10年前の僕は思ってもみなかった

ポテチを買うのやめよっかな...

ヤケになったときにポテチ買うのやめます。

これまで

時々、強い味が欲しくなる時がありますよね。

最近は毎日そうです。毎日塩味が欲しくてしょうがない。

そんな時はポテチを食べていました。

堅揚げポテトを緑茶と一緒に食べると美味しい。

 

ポテチを緑茶で食べるの、イイですよ。

ポテイト、コーラ!!とどこかの干物妹から聞こえてきそうですが、僕は断然緑茶派です。

ポテチの塩分と緑茶の味で塩昆布茶みたいな感じになって美味しいです。

温かいお茶でポテチを食べると、油が溶けていって芋そのものを食べているようにも錯覚します。

 

それはそれとして。

何かあると、コンビニにチャリを走らせてポテチを買ってました。

深夜でもお構いなし。

 

気付き

そんな生活を続けていたある日、気づいたんです。

ポテチ、高くね?と。

 

適正価格とかそういう話じゃないです。

そりゃあ、工場で芋を切って、揚げて、塩をかけて袋詰めしてあの価格なのは当然で、ポテチ側の問題じゃないんですよね。

問題は自分の中にある!

 

最近趣味で、というか生活の軸がヨーヨーになっているんですね。(あとYouTube更新)

やっていると、まあいろんなヨーヨーが欲しくなるわけですよ。

ここで計算タイム入ります

ポテチ180円(堅揚げポテト@コンビニ)、20回食べたら3600円、22回でAddiction(ヨーヨー)1個買えますよこりゃ!!!!!!

と考えたらもう簡単にポテチなんて買えないな、と。

 

毎日米と納豆だけ食べて生きていきます。(納豆は1パック20円だししょっぱいから)

 

そういうわけで

しばらくはヨーヨーに全体重かけて生きていきますわ

というか、ポテチというよりはそもそも、ストレスが溜まる生活なのがよくないのでは......?

 

毎日健康生活目指します。

 

ほぼ、恋。

理論的な部分を感情が圧倒する。

野放図な感情に、名前をつけるという理性的行為でささやかな抵抗を。

その名前は

飯も喉を通らないとはまさにこのことで、そのことばかり考えている毎日です。

ヨーヨーに恋をしていると言っても過言じゃないですよこれは。(過言ではない)

 

メタルヨーヨーを振っている時はその力強さに宇宙を感じ、引き戻しを振っている時は軽快な動きに心奪われる。

1Aをすれば幾何学的美に酔いしれ、2Aをすれば惑星に思いを馳せる。

 

まあこんな駄文を書いてしまうくらいにはヨーヨーが好きになってしまいました。

 

あまりに没頭してしまうと生活が終わるので(社会的死への到達)、程々にしようと思ってはいますが......そんな理性も吹っ飛ぶ快感を毎度覚えているのでもうしばらくはやめられそうにないですね。

 

 盲目

昔、「ごめんね青春」というドラマがありました。その劇中でのセリフを覚えています。

「お前しか見えてないってことは、お前も見えてないってことなんだ」

 

たしか、恋は盲目とかそんなくだりだったと思いますが、今の自分にも同じことが言えそうです。

 

用量用法を守って楽しいヨーヨーライフを。

 

 

 

〜追記〜

ピンガジェットという好きなヨーヨーがあるのですが、

ピンガジェット初号機カラーは毒っぽくてイイし、

グローピンクくんは肉っぽくてこれまたイイ

 ということだけお伝えしておきます。

ヨーヨー日記を始めた理由

最近、Youtubeにヨーヨーのビデオブログを投稿しています。

youtu.be

確認

ビデオで自分のプレーをとることで客観的に確認することができます。

 

違う動きを的確に修正することで、毎日レベルアップ!という寸法ですよ奥さん!!

 

ヨーヨーの位置や手の位置関係など、 自分では意外にわかっていないものです。

 

習慣化

今のところ(5日間)、毎日動画を投稿しています。

 

動画を撮るために練習するのか、練習したものを動画に撮るのか、それはどちらでもいいんです。

 

どうしても練習のやる気が出ない時にも、動画のためにと思って練習するきっかけになるかと思い、毎日9時という頻度で投稿しています。

 

朝顔に添える支柱と同じですね。

 

 見てくれる方へ

見てくれる人が一人でもいる、と考えるだけで、人に見せるためのプレーをすることを心がけることができる気がします。

 

また、ありがたいことに、自分の拙い動画にいいねを押してくれる方もいます。

 

そのワンクリック、ワンタップが「まだまだ頑張ろう」と自分に勇気をくれます。ありがとう。

 

これからも、ゆっくりではありますが成長していく姿を皆さんに見せられたら幸いです。